昭和50年以下不明 石井清子之御霊様15年祭 (末永信太郎) №50-134
金光様のおかげ、天地の親神様のおかげで今日、こういう妹の式年の御祭りを奉仕させて頂くことが出けた。先ず、そのことを一つ、本当に御礼を申させてもらわにゃならん。ね。今日、私は一番はじめ頂いてことは、色々頂いた中に、今日、お花のお供えがしてあるね。あれは、かずえさんが持って来たんであろうけども、あの蘭の花に八手が後ろにあしらってあって、前に小さい葉の八手がこう、あしらってある。
これは、まあ、兄弟の手になって、お花がああしてお供えさせて頂いたが、これが本当にあの、神ながらなことだと、今日、お祭りをこうして仕えさせてもろうて、あの、こうして兄弟身内の者が本当に分からなければならないことを、こう、明示して頂いておったような感じがするよね。
あれはね、どういうことかと言うと、蘭というのは、分からんということ。それから、後ろの(大きな?)八手は、後ろの方のおかげの方が大きいということ。前のおかげは小さい。例えば、何、(お頂戴なんかして?)、何か欲でもらおうとする時なんか、八手のような手をさえ出してといったような意味のことを言うでしょう。これはね、本当に世の中には分からないということが沢山あるということ。
まして、信心の世界にも同じこと。これは、まだ私たちがここまでおかげを受けとるけれども、まだ分からん世界がどれだけあるか分からん。そこを、まあ、生害かけて分からせて頂く精進をするのが、やっぱ信心だと思うけれども。本当に考えて見ると、もう、むつやの上にも、もう分からんことばっかりだと思うね。本当なことが分からん、と。ね。私がようやく、あの椛目で人が助かり出した時に、初めてあの、田代のお母さんじゃったじゃかね。石井のかどっちかがお参りしてみえて、まあ、店を閉鎖、もう品物がないからね、その止めるか止めないかということのお伺いであった。
それをあの、お伺いをさせて頂いて、あの、続けるようにという、もう、その年のちょうど、あの、(さなぼり)売り出しの時じゃったけれども、先生、その(そなぶり)売り出しと言うても、もう商品が、売る商品がないちゅう。ね。けれども、今までの、まあ、その前にあの、古着なんかをなさっておられたり、まだ売れ残りの、もう残品といったようなものがあろうか。そういう物をけっきょく前に出して、そして、まあ、売り出しをさせてもらう。
まあ、とにかく、魚屋さんに生魚ばかりじゃない。干物もあれば、塩魚もある、と。まあ、そういうような気持ちでと言うたら、もう、その時の(すなぼり?)売り出しは、もうとにかく、ただただ、たまがるばっかりに売れたんです。
いわゆる、まあ、言うならば、むつやの商品がもう、全部無くなってしまうぐらいに売れた。それから、まあ、言うならば本気でやろうという気にもなり、まあ、言うなら、それからたきつけて、段々、むつやも人の信用を受けるようになって、田主丸のいわば、むつや呉服店と言われるようなおかげを頂き、それから、会社組織する時にも、どちらが社長でなったが良いかというお伺いあったら、あなた何と言っても、やはり、あの兄弟でなさるのじゃけん、姉さん、姉さんの田代さんが社長としておかげを頂いたが良かろうということで、田代のお母さんを社長として、石井のお母さんが副社長として、いよいよ会社組織として、段々おかげを頂いて、まあ、人も認めてくれるような店も段々出けるようになったかと思うたら、お母さんが亡くなった。
矢継ぎ早に(あきこ?)さんが亡くなった。しかも、このあきこさんなんかは、あれはまあ、高校じゃったかね。高校の時あの、何か健康優良児でね、表彰、あの何か受けたくらいに、それこそ、まあ、こう、家で普通で言うなら殺したっちゃ死なんごたる立派な体格だったけれども、はあ、神様のご都合はどこにあったか分からんけれども、早死にに至った。その、今日は御霊の十五年経ったお祭りなんだよね。
今にして分からん、どうして、あげな信心、あれだけの信心しよってから、あれだけの言うならば、まあ、あの時分のその、むつやがあって、椛目が立っとると言われるくらいに、一生懸命の信心も出けた、御用も出けたですわね。それはアンタ達も、子供心によく知っとる通りで、アンタ達も、じゃ、そのお母さんに連れられて、ただお参りをして来とったということであった。
それから、田代のお母さんが亡くなった。あん時、信司さんがいくつじゃっただろうかね。え?23歳じゃった。23歳。ね、まだ23歳、まだ嫁御もろうとらん23歳の、まあ、お坊ちゃんが一人、いわば残された(というのよね?)。それから、まあ、色々な問題があって、もう、これでむつやも終えたと世間では言うようなことがあったり、それこそ、世間の人はあの時分、起こった色んな問題をあの、むつやのお家騒動と世間の者は言うたようなことの中を、しかし、まあ、良う本当に今日までね、切り抜け切り抜け、そこんところをおかげを頂いて来たもんだと、私は思うです。
ただ、そこだけは分かる。けれども、これほど信心しておっとに、どうしてこういう次々と難儀なことが続いたかということは、今にして、まだ分からん。ね。そこでね、私はあの、今日の御霊様のお祭りをさせて頂いて、本当にこれはもう、いよいよ、んなら、分からなければならないことは、信心ということは、あの、自分自身が分かることだと言われておるのだからね、これだけなら分かるの。自分というものは分かる。しかも、教えを頂いて、教えの鏡を持ってすると、それこそ自分の心を顕微鏡で覗いたように分かるの。
ね、そして、なるほど、こんなことじゃいけないて。例えば、けっきょく、人じゃない、自分自身が分かって行くことに、これならば分かって行くの、限りなく分かって行きよるのだから、この分かることを先ず分かって行って、ね、信心精進させて頂きよる時にです、後ろの方には輝かしい大きな八手たいね、おかげが後ろの後の方にあるんだ。今、前の方に頂いとるは小さい、まだおかげ。
そのおかげもね、どういう難儀なことがあっても、どういう目の前が真っ暗になるようなことが起こってもね、その前後に、そればってん、神様のおかげて言わにゃおれないことが起きて来るわけなんだよ。ね。例えば、んなら、今のむつやも、まあだ、ある意味ではガタガタしながらもです、何とはなしにおかげを受けて行く。ね。だから、その分からないというところを、一つ分からせて頂くことのために、先ずは自分が分からなければならないて。
私も、もう、本当にまあ、私は人並み勝れて親に孝行したいという一念は、誰よりも強かったと自分で思うです。それが、(ふくし?)辺りまでも出かけた。そして、なら一旗上げてという、そして、本当に親孝行さしたいの一念が(ふくし)、そして(ふくし)の十年、そして、体一貫で命からがら家族中の者が引き上げて帰って来なければならないというなことが起こって、そして、その翌月には弟の戦死であり、そして妹婿の、私達の後、あの、今のすまよの婿たいね、今、椛目の、が肺病で寝とりました。
私ども、こうやって寝とりました。それが亡くなり、そして、家内の姉の婿が北京から一緒に引き上げて来たのが亡くなった。それで、その家族は全部、椛目に親子4人連れ、私は椛目に全部引き取りました。と言うんですから、本当言うと4人です。家内の兄がやっぱ、その、亡くなったけれども、私はあの、半年も経たない内に、言うなら兄弟三人の、しかも私の身にかかって来る者ばっかりです、みんなも。妹達の場合であろうが、その姉、妹、母の、家内の姉婿であろうがね、というような、その、矢継ぎ早に起きて来るそういう中に、なら、これが命の綱とまで思うておった酒屋の商売が配給店を止めなければならない。
もう、それこそ踏んだり蹴ったりといったような感じの中にね、もう、私はここで一つも、まあ、言うなら貧乏揺るぎもしなかったことが、自分の中で今でも有り難いと思うておるです。私が御本部へ親先生のお供をして月参りをさせて頂くようになったのは、弟の戦死の広報を頂いた月からです。ね、だから、けっきょく御教えにあるように、これほど信心するのに、どうしてこのようなことがと言う時には、もう信心が止まっておるんだ、と。これは、まだ信心が足りんのだと思うて、そこから信心をして行けば、そこからおかげが受けられるという、もう、やっぱそういうものが漠然として、私の心の中にあったんだと思う。
だから、私が一生懸命になるから、家族中の者が、もう一生懸命にならん訳にはいかん。それこそ、もう本当に住むに家がない、食べ物がない、着る物がないといったあの時代の中を、まあ、おかげを頂いて、神様一筋におすがりし抜いて、言うならば今日のおかげがあるということは、ちょうど、今日のあの蘭の後ろにある大きな八手のね、後からのおかげは、それこそ輝かしいおかげになって来たということだよ。
だから、これを、んなら、合楽の一つの小型としてね、例えばあの、むつやの皆さんがあの、その小型的な信心が出けるおかげを頂いて、なるほど、分からんことはいっぱいなのだけれども、ね、例えば、んなら、さえこさんどんが亡くなったのは、ここに参って来よってからじゃからねえ、言うならば。
もう、本当に分からんことばっかりなんだ。けれども、ここで、んなら一つ、私がはっきり信心の手本というものを示させて頂いとって、あれほど一家で信心しござるとに、どうしてあげな難儀が続くだろうか、どうしてあげな貧乏せんならんだろうかという、それと同じこと。
そこを、んなら、分からん。けれども、ただ、一生懸命のひたすら神様にすがり抜かせて頂いておって、今分からせて頂くことは、弟の戦死も、ね、商売を取上げられたことも、次々と兄弟たちが亡くなったことも、今にして思えば、ね、本当にあれが輝かしいおかげ。
だから、ここに思うこと、思わねばならんことね、今日の信心はどうも、(奇異視的?)な見方をする。もう、目先のおかげのことばっかり言うのね。信心しよって、どうしてあげなこつが、とこういう風な言い方をするけれども、もう、それこそ遠大。そこで、自分の心は、一つ顕微鏡で眺めるような気持ちになると、自分の心が赤裸々に分かって来るの。
これじゃあ、いかん。こげなこっじゃおかげ頂けんはずというものが分かって来る。そこで、んなら、神様の働き、神様のお心というものは、一つ望遠鏡で眺めるような気持ち。分からんですそれは、分からんけれども、分からんけれども、やはり、その、神様の御神意、御深慮の深さはどこにあるか分からんという頂き方で、信心を精進して行く以外にはないということ。ね。
そして、なら、今日、あの、いわゆる、前のおかげよりも、これからのおかげの方が大きい。言うならば、輝かしいおかげに繋がって行くことのためには、この分からんところをです、ね、いよいよ、一つずつでも分からせて頂いて、いわば、そのおかげを受けた暁にですね、なるほど、長年の言うならばむつや一門の人達のおかげというものが輝かしいものになった時にです、初めて、あれもおかげであった、これもおかげであったということになるのであり、ね、言うなら、前の小さいおかげよりも、これからの言うならば輝かしいおかげを目指すために、いよいよ、まずは銘々が本当に分からなきゃいけん。
銘々、なら教えを光を持ってすると、すぐ分かるの。教えの鏡を前に立てるとすぐ分かるの。いわゆる、それを、なお、また、細やかに、なら、顕微鏡で眺めるぐらいな気持ち。ね。人じゃない、人の、自分自身の内容をいよいよ確かめながらです、ね、これはまあだ、信心が足りんからだと、なら、一段と、より高度な、ね、この頃からベターということを頂いたが、そのいわゆる、ベターの信心に進んで行かなきゃならない。ね。そして、例えば、なら、こうして御霊様たちのお祭りでもさせて頂く時に、本当にあん時は分からんことばっかりじゃった。ほんに、どうしたことじゃろうかとも思うた。
けれども、こういう輝かしいおかげを頂くことのための、言うならばむつや一門のための礎であった、基礎であったとお礼が言える時に、私は御霊がいよいよ助かるのじゃないかと思うですね。今日の御霊様のことは、ちょうどね、もう船が出かかっとるとよ。こうね。それを、走って来てから、待って下さい、待って下さいと言ったら、その船が帰って来るところを頂いた。
だから、今日の御霊様のお祭りは、御霊ながらもやはり信心の精進を一生懸命しとることだけは間違いない。その、言うなら船ということは、徳の船だと思う。もう、危ないことで、あの、乗り遅れるところを、今日の言うならば、そうした真心を込めて皆のお祭りが、それをまた呼び止めて、またその徳の船に乗って、またこれからの、次の信心に進んで行く姿勢を御霊様が示して下さったという風に思うよね。
どうぞ一つ、まあ、分からん時には、一つ私が体験でして来たことを思うてくれたらいいです。ね。合楽の、なら先生が、なら今日までのおかげを頂いて来る。それこそ、信心しよってどうしてということはいっぱいあったけれども、ね、けれども、その分からんの。これは、世間にも分からんことが沢山あるように、信心しよっても分からん。また、本当に簡単に分かるごたる信心なら、私はそれは浅いと思うよ。ね。
ね、分からんところをね、少しずつでも分かって行くというところに、限りない金光大神の信心の深さ、と。または、限りないおかげに繋がって行けるという、言うならば輝かしいおかげに繋がって行けれるおかげを頂くひとつの希望というものも湧いて来るの。
問題はここに必要なのは、いよいよ、元気な心だ。ね。生き生きとした、言うならば、それこそ若い蘭のようなね、ね、今日のお神酒がどういうことであったから知らんけれども、お神酒はあの、若の寿とあるね。もう、アンタたちのことを、こう、アンタたちをこう、表示したというかね、表したような感じがするです。どうでも、若の寿から、いよいよこれからのね、一つ、まあ、おかげを頂いて、本当にやっぱり、あの、金光様の信心にあれだけお母さん達も打ち込んじゃったが、まあ、後々もやっぱ信心続きよったが、やっぱりああいうおかげになった。しかもそれがね、本当の意味で、そういう、いよいよ子孫繁盛家繁盛と言われる繁盛に繋がって行くような。子供にも孫にもいよいよ伝わって行くような、そういうおかげを頂かなければならんというね、一つ、決意を示す、私はこういうお祭りをする時には一つのチャンスだと思うよね。
どうぞ、この気をもう逸することなく、失することなく、いわゆる、次の信心に進ませて頂かなきゃいけんと思うよね。どうぞ。